コラム

2020.11.20

【1993年】弁護士駆け出し時代〈 II 〉

法廷の中で学んだ弁護士としてのスキル

スポーツでは「勝ち試合から学ぶことは少ないが、負け試合からは学ぶことが多い」と言われる。弁護士の世界でもそうだ。特に尋問の技術は、座学では絶対に身につかない。「してやられた」と思う尋問を目の前でされることも多かった。自分がされると苦しい尋問のやり方を知ると、それを次に生かすことが大切だと思った。
準備書面に「主張自体失当」と書いて、相手方のベテラン弁護士を烈火のごとく怒らせてしまったことがある。感情的な表現は、相手方弁護士のやる気に火をつけ逆効果となるということを学んだのもこの頃である。

先輩の姿を見て勉強した弁護団活動

弁護士としてどうあるべきかは、他の弁護士の活動を見て学ぶしかない。当時はどの新人も何らかの弁護団に加入して事件に関わり、弁護団会議の中で学習していったものだ。私は「金属じん肺事件」「太田国賠事件」「晴山再審事件」などに関わった。関わったと言っても本当に僅かであったが、それらの活動から、どのような弁護士が周囲の尊敬を集めるのかを知ることができた。

楽しかった公害環境委員会での弁護士会活動

表現は適切ではないが、当時の弁護士会活動には、遊び心や余裕があったように思われる。私も公害対策・環境保全委員会では、日頃の業務や裁判と直結しないことから、純粋な気持ちで活動し、士幌高原道路や千歳川放水路などの問題で弁護士会の活動が大きな成果を収める場面に立ち会うこともできた。
この委員会の先輩が強く勧めてくれた、日弁連の公害対策・環境保全委員会の海外視察(ベニスでの国際環境裁判所設置に関する会議)の参加は、大きな財産になった。視察中、井の中の蛙だった私は、日弁連で活動する弁護士のスーパーマンぶりに驚かされ、途中立ち寄ったデンハーグ(オランダ)の国際司法裁判所では、小田判事からヒアリングをするなどの貴重な体験もさせてもらった。そしてこの海外視察の経験が、札幌弁護士会公害・環境委員会単独でのドイツ環境首都の視察につながった。この視察に参加した若手弁護士が、後に公害環境委員会の中心になってくれた。

胃痛から始めたテニス約20年間週2回を継続

弁護士としてフルに活動して8年程経過した頃、胃痛に苦しむようになった。様々な検査の結果、胃痛の原因はストレスという結論となったため、ランニングを開始。しばらくすると胃痛は生じなくなったが、冬に中断すると再発した。そんなとき、ボスを見習ってテニスを始めてみることに。ボールに集中するテニスは、プレー中に事件のことを考える余裕はなく、ショットの時に大声を上げると気分もすっきり。ストレス解消にはもってこいだった。人脈が広がったのもテニスの成果である。

弁護士と名乗るだけで得られた信用

新人でも「弁護士」という肩書きがあれば、お客さんや相手方から高い信用を得ることができた。それは本当にありがたいことで、様々な弁護士会活動や訴訟活動によって「弁護士」の信用を高めてきた先輩方がいたからであると思う。だから、委員長をお役御免になる年代までは、私も一生懸命、弁護士会活動に取り組んできたつもりだ。今、弁護士と名乗っても、それだけでは信用されない。必ず、どのような弁護士かを調べられる時代である。弁護士の信用を落とすことがたくさん起きているということなのだろう。

2020.11.20

【2003年~2005年】独立時代〈 前期I 〉

平成8年、独立忘れられない「事務所開き」の思い出

中山博之法律事務所には4年契約で入所したが、中山弁護士が札幌弁護士会の副会長になったことから独立が半年遅れ、平成8年1月に独立をすることとなった。
当時は、札幌弁護士会は牧歌的でアットホームで、全体で200名程度、毎年加入する弁護士が10名前後だったから、1人1人の顔と名前が一致する時代で、弁護士が独立すると事務所開きと称して、事務所をお披露目し、多くの弁護士がご祝義を持って集まってくれた。私も「事務所開き」を行わせていただき、多くの弁護士の前で、家族そろってご挨拶をさせていただいた。中山先生や中山事務所の二代目イソ弁の森越壮史郎弁護士、同期弁護士からも激励のご挨拶、多くの花束を戴いた。この時の感動は今も忘れられない思い出であり、私の弁護士人生のハイライトの―つだ。

医療訴訟への取り組み

当時、医療訴訟の患者側は、医療に関する知識も少なく、医師の協力も得られる機会が少ないことから不毛の時代だったが、この分野のパイオニアである名古屋の加藤良夫弁護士の呼びかけに呼応して、上田文雄弁護士や中山弁護士が中心となって札幌で医療訴訟弁護士団を作ることになり、その原始メンバーに人れてもらえることになった。メンバーは当初20名前後で、それぞれ5名程度の班をつくり、医療事故で泣き寝入りするしかない患者を救おうというスタンスで無料相談や事件を担当、弁護団を立ち上げた。
班は、AからDまで4つあり、私はC班だった。C班として、私が最初に関わった事故が麻酔事故であった。「麻酔をかけたらだめな身体だったのに、麻酔をかけられたために夫が死亡した」という判じ物のような妻の訴えから調究がスタートした。最初は麻酔にアレルギー反応があるということなのか、半信半疑だったが、以前手術を受けたことがある病院から医療記録を取り寄せたところ、患者は「猪首」で気管挿管がしづらい体型で、実際、手術の際は挿管ができずマスクに切り替えて手術をようやく成功させていたことが判明した。
勝てるという確信のもと、毎回準備書面を作成し、同じC班のベテランの北潟谷仁弁護士に何度も添削をしていただいた。徹夜に近い作業を繰り返して、ついに逆流性食道炎に罹患するまでになったが、努力は実り勝訴となった。この事件で患者の声を素直に聞くことの重要性、粘り強く諦めずに取り組むことの重要性を学んだ。最初の事件が大きな成果を出したことが、その後私を医療訴訟の世界にのめり込ませる結果となった。

楽しかった公害環境委員会での弁護士会活動

表現は適切ではないが、当時の弁護士会活動には、遊び心や余裕があったように思われる。私も公害対策・環境保全委員会では、日頃の業務や裁判と直結しないことから、純粋な気持ちで活動し、士幌高原道路や千歳川放水路などの問題で弁護士会の活動が大きな成果を収める場面に立ち会うこともできた。
この委員会の先輩が強く勧めてくれた、日弁連の公害対策・環境保全委員会の海外視察(ベニスでの国際環境裁判所設置に関する会議)の参加は、大きな財産になった。視察中、井の中の蛙だった私は、日弁連で活動する弁護士のスーパーマンぶりに驚かされ、途中立ち寄ったデンハーグ(オランダ)の国際司法裁判所では、小田判事からヒアリングをするなどの貴重な体験もさせてもらった。そしてこの海外視察の経験が、札幌弁護士会公害・環境委員会単独でのドイツ環境首都の視察につながった。この視察に参加した若手弁護士が、後に公害環境委員会の中心になってくれた。

刑事事件で無罪判決

中山弁護士が全国的に見ても有数な刑事弁護人だったので、刑事事件にも懸命に取り組んでいた。イソ弁時代に、ガソリンスタンドで覚せい剤を使用中に警察の職務質間を受けた被疑者が、乗っていた車で逃げようとして給油機にぶつかってしまい破損させ、覚せい剤取締法違反と器物損壊罪に間われた事件で、給油機にぶつけるという故意はなかったと主張して無罪を獲得した。また、独立してからも放火事件で一部無罪を獲得し、有罪とされた事件については最高裁まで争い、最高裁で保釈決定を取るなどの結果を残すことができた。また、殺人後、被害者から財布を取ってしまったという案件で強盗殺人に問われた事件では、財物奪取の意思は殺人後に生じたものだ、殺人+窃盗に過ぎないとして争い、捜査段階では連日接見をして、被疑者を励ました。毎日面会して信頼を勝ち得ていたと思っていたが、後日、被疑者に「本当は敵対しているはずの検察官の方が弁護人よりも親身に自分のことを考えてくれていると錯覚してしまった」と告白され、挫折感を覚えたことを鮮明に覚えている。残念ながら弁護人の主張は認められなかった。
私にとっての最大の刑事事件は、拓銀の元経営陣に対する特別背任事件だろう。この事件のことは知っている人も多いだろうが、次回に書こうと思う。

弁護士会の視察で海外へ家族で映画の舞台も巡った思い出

弁護士会の活動では、公害対策・環境委員会で副委員長になり、日弁連公害対策・環境委員会委員として日弁連活動にも参加した。日弁連では、自然保護部会に所属して、さまざまな自然保護問題のシンポジウムの企画に参加し、海外視察にも結構出かけた。最初は、視察にただついていくだけであったが、後にコーディネーター役に抜擢されるまでになった。
一番のハイライトは、ウィーンからミュンヘン、ケルンを巡った視察だろうか。この時は都市計画の視察であったが、その前後に楽しい個人旅行が組み込まれていた。せっかくの機会だからということで、参加メンバーの家族も参加した。私も、当時幼稚園に通っていた娘と家内を伴って参加した。ウィーンに入る前に名作「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を巡る旅をした。素晴らしい風景だったが、そこがトラップ一家がボートをこいで転覆したムントゼーであることや、ドレミの歌を歌ったミラベル庭園であることなども知らずに巡っていた。帰国してから映画をレンタルして観て、「ああ、あの場所だ!」と親子して叫ぶシーンばかりであった。本当にもったいないことをした。

2020.11.20

【番外編】父との思い出 ~ぽっぽやの道を貫いた人生~

狸小路で生まれ育ち樺太移住を経験した戦前戦後

昨年10月、父を亡くした。父親は昭和8年(1929)生まれ。同い年の故人では小沢昭一、村田英雄、大川橋蔵、向田邦子がいる。世界恐慌から第二次世界大戦へと向かう大変な時代だった。実家は狸小路1丁目界隈にあった洋裁店。父は札幌がまだ牧歌的な時代に豊平川で泳いだり、帝国座に映画を観たりして遊んでいた。当時栄えていた狸小路にお店があったので、そのまま過ごしていれば戦後それほど苦労はしなかったのだろうが、一家は一旗揚げようと樺太に渡る。
樺太の最南端大泊(現在のコルサコフ)というところに移住したが、間が悪いことに樺太に渡ってすぐに終戦を迎えてしまう。無事、札幌に戻ったのは良いが、狸小路の店は人手に渡り、そこに戻ることができず、実家は山鼻付近で洋装店を営むことになった。

洋裁の仕事を継がず国鉄マン一筋の道へ

終戦を迎えた時、父は17歳。洋裁の仕事を継がず、進駐軍の列車で働くようになり、その後、国鉄の車掌へ。以来、国鉄がJRに変わる最後の年に退職するまで、国鉄マン一筋だった。
戦後から長い間、国鉄は蒸気機関車が中心で、函館や釧路に出かけたら一泊するのが勤務の常識だった。函館で一泊して翌日戻るという勤務の中で、函館駅前のお店で働いていた母と知り合い、結婚して、昭和33年(1958)に私が生まれた。
父は、普段は寡黙、酒が入ると多弁となり、時として騒動を巻き起こすこともあった。職場の友人の方に聞くと、職場では温厚そのもの、酒が入ると鼻と下唇の間にマッチ棒を立てて、ドジョウ掬いを踊り出すという人気者で通っていたという。その分、自宅では酒が入ると鬱積したものがあふれ出てしまったのかもしれない。

どんなことがあっても休んではならない

さて、検察修習では目が回るような忙しい修習だったのが、裁判修習ではじっくりとした修習となり、時間がゆったりと流れていった。しかし、いよいよ弁護修習が始まると、その時間の流れは想像以上に激しく厳しいものに変わった。
当時修習を担当してくださる修習担当の弁護士は担当弁護士が引くくじで決まるのが習わしで、私は磯部憲次先生のところで修習することに決まった。
磯部憲次先生の指導は極めて厳しいものであった。磯部先生からまず言われたのは「弁護士は健康こそ最も大事で、どんなことがあっても風邪であっても交通事故にあっても這ってでも仕事に出なければならない」ということだった。
ところが、間が悪いことに言われてすぐに風邪を引いて休む羽目になった。風邪で寝込んでいたら、磯部先生から電話が来て、やりかけの起案を完成させないまま事務所を休んでしまったことについて注意を受けたのである。
また、磯部先生が事情を聴取しているときに私が介入し、他愛もない話題を顧客に話しかけ場を和ませることがあったが、顧客が帰ってから、途中で話の腰を折るような言動を慎むよう諭された。このエピソードは修習から20年以上経ても記憶に残っているのだから、よほど当時の自分には堪えたのであろう。
お酒が入らない限り、父は優しかった。私が高校へ進学するまでは真駒内に住んでいて、たびたび昆虫採集に連れて行ってくれた。近くの桜山へクワガタやセミ採りをしたり、旧進駐軍住居跡地で当時は警察学校のあった場所にキリギリスを採りに出かけたりもした。また時には、石狩当別の釜屋臼(かまやうす:現在のあいの里公園)にまで足を運び、フナやドジョウ釣りも教えてくれ、父親と一緒に楽しんだ情景が思い出される。

花形路線・函館本線の専務車掌として活躍する日々

松本清張の小説「点と線」でも取り上げられているが、父の働いていた時代は飛行機がほとんど普及しておらず、札幌から東京までは青函連絡船を利用しての鉄道での旅行が一般的だった。当然のことながら車掌にとって、乗客が多い札幌~函館間は花形路線だった。父からは有名歌手(春日八郎や三浦浩一)や関取(柏戸)を乗せたという自慢話をよく聞かされていた。
その後、父は一念発起して車掌を束ねる専務車掌を目指し、見事合格を果たす。しかし、専務車掌の定員は満杯。誰かが退職してポストが空くまではローカル線の車掌を務めなければならなかった。それまで食堂車付きの花形路線で活躍していただけに、手弁当で万字線などのローカル線に一人で乗車するのは非常に辛い日々だったと思う。

やがてポストに空きが出て、専務車掌になることができた。現在はテープによる無味乾燥な男性の声の案内が流れるが、当時は鉄琴のメロディーとともに、車掌自らが生で到着駅の案内をしていた。特に、函館本線では大沼国定公園や駒ヶ岳などの名勝を案内するのが習わしで、父は、この案内が非常に上手だった。
国鉄を退職する間際、札幌駅まで父の写真を撮影しにいったことを覚えている。真っ白い制服を着た写真が一枚残っている。父の絶頂の時といえるだろう。

豪雪の出来事自覚させてくれた父の怒り

退職後は、私の受験が重い影を落とした。父が退職したのに、息子は未だに宙ぶらりんのまま、合格もせず、自宅にいる。それでも父親は黙って面倒を見てくれた。そのストレスやいかばかりかと思う。
それが爆発したのは昭和63年(1988)の冬のことである。大雪の日だった。父は雪かきをしているうちに、雪かきもせずに黙って室内にいる私に腹が立ったのだろう。私も父親に窓越しに雪をぶつけたこともあり、烈火のごとく父は怒った。それまで父の車を北海道大学給湯室まで通うのに使っていたが、その車も取り上げられてしまう。その後はもう針のむしろ状態。私は、この家には居られないという気持ちが募る一方だった。背水の陣である。
幸い、その年、火事場の馬鹿力で最終合格を果たすことができたが、あの豪雪の日の出来事がなければ甘えがでて合格できなかったかもしれない。
今自分も一人の父親となって、父の気持ちを追体験しているが、受かる保証などない司法試験にチャレンジすることをよく許してくれたと感謝する気持ちでいっぱいだ。

鉄道員だったことを忘れていなかった最期

その後、父は北海道犬の「ドン」や野良猫の「ニャン」を可愛がりながら、自宅の庭いじりを楽しむ生活を送っていた。やがて認知症状が重篤となり、入院生活を余儀なくされた。晩年、父は朝起きると、母に「国鉄車掌区から電話が来て今日乗車してくれと言われたので、車掌の制服を出しておいてくれ」とよく話していたそうだ。
最後の最後まで気持ちは鉄道員だったのかもしれない。

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