狸小路で生まれ育ち樺太移住を経験した戦前戦後
昨年10月、父を亡くした。父親は昭和8年(1929)生まれ。同い年の故人では小沢昭一、村田英雄、大川橋蔵、向田邦子がいる。世界恐慌から第二次世界大戦へと向かう大変な時代だった。実家は狸小路1丁目界隈にあった洋裁店。父は札幌がまだ牧歌的な時代に豊平川で泳いだり、帝国座に映画を観たりして遊んでいた。当時栄えていた狸小路にお店があったので、そのまま過ごしていれば戦後それほど苦労はしなかったのだろうが、一家は一旗揚げようと樺太に渡る。
樺太の最南端大泊(現在のコルサコフ)というところに移住したが、間が悪いことに樺太に渡ってすぐに終戦を迎えてしまう。無事、札幌に戻ったのは良いが、狸小路の店は人手に渡り、そこに戻ることができず、実家は山鼻付近で洋装店を営むことになった。
洋裁の仕事を継がず国鉄マン一筋の道へ
終戦を迎えた時、父は17歳。洋裁の仕事を継がず、進駐軍の列車で働くようになり、その後、国鉄の車掌へ。以来、国鉄がJRに変わる最後の年に退職するまで、国鉄マン一筋だった。
戦後から長い間、国鉄は蒸気機関車が中心で、函館や釧路に出かけたら一泊するのが勤務の常識だった。函館で一泊して翌日戻るという勤務の中で、函館駅前のお店で働いていた母と知り合い、結婚して、昭和33年(1958)に私が生まれた。
父は、普段は寡黙、酒が入ると多弁となり、時として騒動を巻き起こすこともあった。職場の友人の方に聞くと、職場では温厚そのもの、酒が入ると鼻と下唇の間にマッチ棒を立てて、ドジョウ掬いを踊り出すという人気者で通っていたという。その分、自宅では酒が入ると鬱積したものがあふれ出てしまったのかもしれない。
どんなことがあっても休んではならない
さて、検察修習では目が回るような忙しい修習だったのが、裁判修習ではじっくりとした修習となり、時間がゆったりと流れていった。しかし、いよいよ弁護修習が始まると、その時間の流れは想像以上に激しく厳しいものに変わった。
当時修習を担当してくださる修習担当の弁護士は担当弁護士が引くくじで決まるのが習わしで、私は磯部憲次先生のところで修習することに決まった。
磯部憲次先生の指導は極めて厳しいものであった。磯部先生からまず言われたのは「弁護士は健康こそ最も大事で、どんなことがあっても風邪であっても交通事故にあっても這ってでも仕事に出なければならない」ということだった。
ところが、間が悪いことに言われてすぐに風邪を引いて休む羽目になった。風邪で寝込んでいたら、磯部先生から電話が来て、やりかけの起案を完成させないまま事務所を休んでしまったことについて注意を受けたのである。
また、磯部先生が事情を聴取しているときに私が介入し、他愛もない話題を顧客に話しかけ場を和ませることがあったが、顧客が帰ってから、途中で話の腰を折るような言動を慎むよう諭された。このエピソードは修習から20年以上経ても記憶に残っているのだから、よほど当時の自分には堪えたのであろう。
お酒が入らない限り、父は優しかった。私が高校へ進学するまでは真駒内に住んでいて、たびたび昆虫採集に連れて行ってくれた。近くの桜山へクワガタやセミ採りをしたり、旧進駐軍住居跡地で当時は警察学校のあった場所にキリギリスを採りに出かけたりもした。また時には、石狩当別の釜屋臼(かまやうす:現在のあいの里公園)にまで足を運び、フナやドジョウ釣りも教えてくれ、父親と一緒に楽しんだ情景が思い出される。
花形路線・函館本線の専務車掌として活躍する日々
松本清張の小説「点と線」でも取り上げられているが、父の働いていた時代は飛行機がほとんど普及しておらず、札幌から東京までは青函連絡船を利用しての鉄道での旅行が一般的だった。当然のことながら車掌にとって、乗客が多い札幌~函館間は花形路線だった。父からは有名歌手(春日八郎や三浦浩一)や関取(柏戸)を乗せたという自慢話をよく聞かされていた。
その後、父は一念発起して車掌を束ねる専務車掌を目指し、見事合格を果たす。しかし、専務車掌の定員は満杯。誰かが退職してポストが空くまではローカル線の車掌を務めなければならなかった。それまで食堂車付きの花形路線で活躍していただけに、手弁当で万字線などのローカル線に一人で乗車するのは非常に辛い日々だったと思う。
やがてポストに空きが出て、専務車掌になることができた。現在はテープによる無味乾燥な男性の声の案内が流れるが、当時は鉄琴のメロディーとともに、車掌自らが生で到着駅の案内をしていた。特に、函館本線では大沼国定公園や駒ヶ岳などの名勝を案内するのが習わしで、父は、この案内が非常に上手だった。
国鉄を退職する間際、札幌駅まで父の写真を撮影しにいったことを覚えている。真っ白い制服を着た写真が一枚残っている。父の絶頂の時といえるだろう。
豪雪の出来事自覚させてくれた父の怒り
退職後は、私の受験が重い影を落とした。父が退職したのに、息子は未だに宙ぶらりんのまま、合格もせず、自宅にいる。それでも父親は黙って面倒を見てくれた。そのストレスやいかばかりかと思う。
それが爆発したのは昭和63年(1988)の冬のことである。大雪の日だった。父は雪かきをしているうちに、雪かきもせずに黙って室内にいる私に腹が立ったのだろう。私も父親に窓越しに雪をぶつけたこともあり、烈火のごとく父は怒った。それまで父の車を北海道大学給湯室まで通うのに使っていたが、その車も取り上げられてしまう。その後はもう針のむしろ状態。私は、この家には居られないという気持ちが募る一方だった。背水の陣である。
幸い、その年、火事場の馬鹿力で最終合格を果たすことができたが、あの豪雪の日の出来事がなければ甘えがでて合格できなかったかもしれない。
今自分も一人の父親となって、父の気持ちを追体験しているが、受かる保証などない司法試験にチャレンジすることをよく許してくれたと感謝する気持ちでいっぱいだ。
鉄道員だったことを忘れていなかった最期
その後、父は北海道犬の「ドン」や野良猫の「ニャン」を可愛がりながら、自宅の庭いじりを楽しむ生活を送っていた。やがて認知症状が重篤となり、入院生活を余儀なくされた。晩年、父は朝起きると、母に「国鉄車掌区から電話が来て今日乗車してくれと言われたので、車掌の制服を出しておいてくれ」とよく話していたそうだ。
最後の最後まで気持ちは鉄道員だったのかもしれない。